言葉のクスリ、古今和歌集より、恋歌1首

古今和歌集は、醍醐天皇の勅命により万葉集に撰ばれなかった古い時代の歌から、紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑ら、撰者の時代までの古今の和歌の名作を選んで編纂し、延喜5年(905年)4月18日に奏上された初の勅撰和歌集です。

恋歌1首、ご紹介致します。

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詞書=初瀬にまうづるごとにやどりける人の家に、久しくやどらで、ほどへてのちにいたりければ、かの家のあるじ、かくさだかになむやどりはある、といひ出して侍りければ、そこにたてりける梅の花ををりてよめる。

人はいさ
心もしらず
ふるさとは

花ぞ昔の
香ににほひける

つらゆき

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意訳

大和の初瀬にある長谷寺の十一面観音に参詣するたびに泊まっていた恋人の家に、久しぶりに行ってみたら「なんとも久しぶりでございますわね」とすねられたので、飾ってあった梅の枝を折って差し出して詠んだ

ひとの心はどうだろうか
わからないのだが
なじみのこの家では

梅の花が昔と変わらず
香っています

鑑賞

あまりにも有名な紀貫之の一首です。恋愛によって脳が活性化するという記事もありましたが、平安時代の貴族は恋愛感情をとても大事にしていたんですね。古今集でも、「恋歌」という項目をつくり古今の優れた恋愛の和歌を選定していましたが、なぜか、この歌は「春歌」の項目に分類されています。紀貫之は選者でもありましたから、自分の恋愛の和歌を「恋歌」に入れてあからさまにすることは恥ずかしかったのかもしれません。照れ隠しで、梅の花の季節に入れたのかもしれません。それと、謎かけの側面もあったかもしれません。「この会話の意味わかりますか?」と風流を理解できるか、挑戦状みたいなものですね。詞書きには和歌の背景も詳細に書かれていますが、男性とも女性とも分からず、表面的には恋愛の歌でも何でもないのです。それでも、詠めば詠むほど、味わえば味わうほど、恋愛の和歌なんですよねえ。

9世紀当時、大和の長谷寺の十一面観音は非常に厚い信仰を集めていたそうです。残念ながら現在の十一面観音像は平安時代のものとは異なる、室町時代再建のもののようですが、昔の面影は当然引き継がれているでしょう。

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京都から奈良まで約40キロ、それはもう泊まりがけの大変な旅行でしたね。泊まりがけでも見に行きたいような観音さま。今で言えば、観光名所や大きな遊園地みたいなものでしょうか。

「ひとはいさ」という出だし、素晴らしいですね。直訳では、「人は、さあ」というような感じでしょうか。人って、勿論、このすねている家のあるじですね。

「心もしらず」って、貴方の気持ちは分かりませんが、というのですが、勿論、百も承知な訳です。分かっているくせに、わざと、「貴方の気持ちは分かりません」なんて宣言しちゃうわけです。心憎いですよね。

「昔の香ににほひける」と、昔と同じように香っていると回答して、「俺の気持ちは変わらないぜえ」とのろけて見せているわけです。直接言ったら目から火が出るような恥ずかしい台詞ですが、梅の花に託して書いているのでぼやけているんですね。

非常におおざっぱな意訳になりますと、「なじみの女がごぶさたですねとすねてきたのでなぐさめてやった!もてる男はつらいぜ!」みたいな和歌になるわけです。カッコイイですね!

紀貫之から現代の我々に向かって、「俺は恋愛しているぜ、あなたたちはどうだい?」と聞かれているようです。脳を活性化するために、我々もドキドキすることを大事にしなければなりませんね。


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