新古今和歌集は、後鳥羽院の命により編纂された勅撰和歌集です。建仁元年(1201年)、後鳥羽院の御所に和歌所が設置され選定作業が始まりました。編集方針は、万葉集から古今和歌集に始まる7つの勅撰和歌集まで、今まで選ばれなかったものの中から選ぶというものでした。古今東西、身分の高低を問わず、写実の歌から目に見えない神仏の言葉、夢に出て来た情景まで、広く集める方針でした。選者は源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮の6名ですが、後鳥羽院自身や院歌壇の様々な歌人が編纂に加わったとされ、また、承久の乱(1221年)により隠岐に流された後まで長年改訂が続いたという特徴があります。
新古今和歌集には、漢文の序文と、ひらがなの序文(仮名序)があります。
仮名序を御紹介致します。
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やまとうたは、むかしあめつちひらけはじめて、人のしわざいまださだまらざりし時、葦原中つ国(あしはらのなかつくに)のことのはとして、稲田姫(イナダヒメノミコト、クシナダヒメ、櫛名田比売、奇稲田姫)、素鵞(ソガ)のさとよりぞつたはれりける。しかありしよりこのかた、そのみちさかりにおこり、そのながれいまにたゆることなくして、いろにふけり、こゝろをのぶるなかだちとし、世をおさめ、たみをやはらぐるみちとせり。
かゝりければ、よゝのみかどもこれをすてたまはず、えらびをかれたる集ども、家々のもてあそびものとして、ことばの花のこれる木の下かたく、思ひの露、もれたるくさがくれもあるべからず。しかはあれども、いせのうみきよきなぎさのたまは、ひろふともつくることなく、いづみのそましげき宮木は、ひくともたゆべからず。ものみなかくのごとし。うたのみちまたおなじかるべし。
これによりて、右衛門督源朝臣通具、大蔵卿藤原朝臣有家、左近中将藤原朝臣定家、前上総介藤原朝臣家隆、左近少将藤原朝臣雅経らにおほせて、むかしいまときをわかたず、たかきいやしき人をきらはず、めに見えぬかみほとけのことの葉も、うばたまのゆめにつたへたる事まで、ひろくもとめ、あまねくあつめしむ。
をのをのえらびたてまつれるところ、なつびきのいとのひとすぢならず、ゆふべのくものおもひさだめがたきゆへに、みどりのほら(緑の洞)、花かうばしきあした、たまのみぎり、風すゞしきゆふべ、なにはづのながれをくみて、すみにごれるをさだめ、あさか山のあとをたづねて、ふかきあさきをわかてり。
万葉集にいれる哥は、これをのぞかず、古今よりこのかた七代の集にいれる哥をば、これをのする事なし。たゞし、ことばのそのにあそび、ふでのうみをくみても、そらとぶとりのあみをもれ、みづにすむうをのつりをのがれたるたぐひは、むかしもなきにあらざれば、いまも又しらざるところなり。すべてあつめたる哥ふたちゝはたまき、なづけて新古今和哥集といふ。
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意訳
日本の和歌は、太古天地が出来て、人類の営みが始まる前、原始日本の言葉として、素戔嗚尊(スサノオノミコト)の妃である稲田姫(クシナダヒメ)の出身地、出雲の素鵞(ソガ)の村が発祥地となって、伝わっているものである。それから今まで、和歌は流行し、途絶えることなく、恋愛や気持ちを表現する道具となり、天下を統治し、民衆を従わせる道具となってきた。
このような次第で、代々の天皇もこれを捨ておかず、今までに編纂された勅撰和歌集は、重臣どもの家々でも大事に読み継がれており、他に、美しい花であるような和歌、美しい思いがこめられた優れた和歌が残っているはずは無いと言える。しかしながら、伊勢の海岸で波に洗われた美しい宝石は、いくら拾っても尽きることがないし、宮木に使われる和泉国の美しいヒノキも、いくら伐っても尽きることが無い。これは万物が従う理(ことわり)であり、和歌の道も同じである。
そこで上皇は、源通具・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経らに命じて、昔と今を分けず、身分の高い人や卑しい人をいとわず、目に見えない神仏を詠んだ歌や、夢に出て来た情景まで、広く探索し、収集させた。
各自選んで献上したところ、夏引きの糸のように一筋ではなく様々なものがあり、夕方の雲のように様々な思いが交錯して選択することが難しいので、上皇御所の庭で、美しい花々が咲き薫っている朝、和歌を選ぶのに相応しいと思われる瞬間に、
「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」と、大鷦鷯尊(オオサザキノミコト)が仁徳天皇として即位した際に、治世の繁栄を願って王仁によって詠まれた歌の流儀を参考にして、和歌の優劣を定め、
「安積香山(あさかやま)影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに」と万葉集に歌われた、心の深さを参考にして、和歌の心の深さ浅さを定めた。
万葉集は勅撰和歌集では無かったので、万葉集から今まで勅撰和歌集に選ばれなかった優れた和歌は選んだが、今まで7代の勅撰和歌集に選ばれたものは、既に選ばれているのだから載せなかった。しかし、言葉の花園にどっぷりつかり、書物の海を調べ尽くしても、空を飛ぶ鳥が網から逃れるように、魚釣りで魚を取り逃がすように、昔から優れた和歌は隠れて残っていることがあったのであり、今回の勅撰和歌集からも洩れた優れた和歌があるかもしれない(和歌を探索する心は持ち続けなければならない)。集めた和歌は全部で2千首、二十巻、名付けて新古今和歌集という。
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鑑賞
仮名序では、古今和歌集の時と同様に「和歌の効用」が述べられています。和歌というのは、日本語が誕生したのと同時に誕生し、歌い継がれてきたもので、男女の恋愛にも必須のものだったし、気持ちを表現することにも必要な道具だったし、天下を治めることにも、民衆を従わせることにも、非常に役立ってきたと述べられています。まるで魔法ですね。
そのような魔力を持つ和歌の力を役立てるために、後鳥羽院は当代の和歌の名手達に命じて古今和歌集を超える勅撰和歌集の編纂を命じたわけです。恋愛を成就させ、気持ちを整理し(ストレスを軽減し)、国家運営がうまく行き、国民も素直に従わせることができる力を持っているというのです。当然、現代社会でも、企業や家庭内の平和を維持するのに役立つはずですね。
その和歌を選ぶためには、古今東西を問わず、作者の身分を問わず、題材すら問わず、虚心坦懐に広く調べて集めなければならないと記されていますね。現実世界から離れた和歌の世界においては、時代も身分も問わない理想郷が実現していたというわけです。ストレスを軽減するには、時代や社会背景は一切無視する必要があるという教訓に読めます。
承久の乱を起こした後鳥羽上皇ですから、和歌の力も借りて政治権力を握りたいという野心があったのかもしれませんが、隠岐に流されても改訂作業を続けているうちに、精神安定剤としての和歌の不思議な力を痛感したはずです。何十人、何百人の何十年にも渡る選定編集活動のたまものですから、現代の我々も活用しない手は無いと思います。